「ザ・ラグジュアリー」日産・フェアレディZ誕生秘話

30 4月 , 2015  

「フェアレディZ」は、日産から販売されているスポーツカーです。手頃な価格にして高級車並のスタイリッシュなドライビングを満喫できる優れた運転性能が話題を呼び、北米市場で大ヒットを記録。こんにちの誉れ高き日本車のイメージを海外に定着させた歴史的な車種として名を馳せています。
しかし、フェアレディZの開発は関係者にとって血のにじむような苦難の連続であり、現代の華々しい新車発表とは真逆の経緯だったことはあまり知られていません。ユーザーに全く期待されることなく生み出された製品がいかにして世界トップクラスの人気車種の座を勝ち得たのか、その驚くべき誕生秘話をご紹介しましょう。
 

 
参照:http://www.nissan.co.jp/Z/
 

グレード名 ベースグレード バージョンT ニスモ
エンジン VQ37VHR VQ37VHR VQ37VHR
最高出力 336ps/7000rpm 336ps/7000rpm 355ps/7400rpm
駆動方式 FR FR FR
トランスミッション 6MT 7AT 6MT
燃費 9.1km/l 9.2km/l 9.2km/l
販売価格 3,831,840円 4,081,320円 5,626,800円

 

開発コンセプトは日本車のイメージ一新!

フェアレディZの開発は、今から50年近く前の1960年代に始まりました。現代でこそ日産やトヨタ、ホンダなどのメーカーがリリースする日本車は高性能車種として世界的人気を誇っていますが、当時の日本車のイメージは最悪そのもの。「ちょっと走っただけですぐに壊れる」ともっぱらの評判であり、倉庫内の日本車には誇りどころか埃がかぶっているような状態でした。
そこで米国日産の社長だった片山豊氏は、北米市場に通用するモデルを開発すべく一大プロジェクトを企画します。当時ほとんど存在しなかった安価で高性能なスポーツカーを作れば、海外市場でも日本車がヒットを収めることが出来ると考えていたのです。

プロトタイプの製作

疎まれ続けてきた日本車のイメージを一新しよう!それは、当時の日本車メーカーにとってあまりにも非現実的な目標でした。
長い協議の末にようやく開発に着手した日産の首脳陣でしたが、ヤマハのエンジニアと衝突の連続。エンジンがボンネットに収まらないせいでデザインを大幅に変更せざるを得なくなったという経緯まであり、まさに血のにじむような努力を経てようやくプロトタイプを完成させます。
1969年に発売されたフェアレディZの初代モデルは、北米のカーユーザーのニーズと見事にマッチ。「ダッツン・ズィー(Datsun Z)」の名は瞬く間に広まり、空前の大ヒットを達成しました。関係者の死にもの狂いの努力が遂に結実した瞬間でした。

車名に込められた開発者の魂

フェアレディZに付けられている「Z」という文字は、「究極」を表していると言われています。しかしそれは世間的な建前であり、実際には当時の日産社内のフェアレディZ開発室内に「Z旗」が飾られていたからという意外な由来があります。
Z旗とは、日露戦争の日本海海戦で日本海軍がロシアの艦隊を撃破した際に掲げられていた旗のことです。東郷平八郎連合艦隊司令長官の号令に発奮した日本軍が大国を打ち破った歴史的シンボルであり、日産がどれほどこのプロジェクトに力を注いでいたかが分かります。
第二次世界大戦で大敗を喫し、自動車業界でも見下されていた日本が復興をかけて臨んだフェアレディZの開発。それはもはや一企業の問題ではなく、国の威信をかけた命がけの戦いと言っても過言ではなかったのです。


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